「Thank you」に相当する日本語はない。「Thank you」を「ありがとう」と訳すのは間違いである。そんな風に思い始めてから20年以上が経つ。
大学生の時、初めてロンドンへ行った。
ロンドンは旅行者に優しい。街全体が外国人に慣れているし、東京に似ている部分もある。そして都会なので、何かが足らなくて致命的に困るということがない。
ずいぶん前のことなので、そのときどこに行ったとか、何を買ったとかはもう忘れてしまったが、イギリス人、ロンドンの人々のコミュニケーションのあり方、人間らしさのようなものは強烈に覚えている。
たとえば…、彼らは赤の他人にまったく躊躇なく話しかける。「イギリス人はシャイだ」という通説、あれは完全に嘘だと思った。
中でも彼らが事あるごとに「Thank you」と言うのがとても素敵だった。
すれ違う人とぶつかりそうになってよけた時、地下鉄で降車する人のために通るスペースを空けてあげた時など、日常のちょっとした場面で彼らは躊躇なく「Thank you」と言う。東京ではみな無言で遂行するようなことだ。
だから、街のいたるところから「Thank you」が聞こえてくるような気がした。
もっとも驚いたのは、商店のレジでは買う側も「Thank you」と言うことだ。コンビニのような無機質なチェーン店でさえそうだ。
イギリス人はなんてナイスな人たちなんだろう。それが第一印象だった。
その旅行中、私はあることに気付いた。「Thank you」を日本語に訳すことができないのではないかと。
「Thank you」に相当する日本語は「ありがとう」だと、一般的にはそういうことになっている。
しかし、目下の者が目上の者に「ありがとう」とは言わない。
店員が客に「ありがとう」と言ったら、もしくは部下が上司に「ありがとう」と言ったらおかしい。「ありがとうございます」と言わねばならない。
逆に上司が部下に言う「ありがとう」も「Thank you」とイコールではない。敬語、丁寧語をあえて使わないことによる上下関係、主従関係の表現が含まれている。
同世代の親しい者同士が交わす「ありがとう」はニュアンス的には「Thank you」に近い。しかし、この場合でも街のいたるところで使われる「Thank you」の普遍性を表現できない。
このことは、日本語のコミュニケーションには、常に上下関係の確認が含まれていることを示している。
お互いに「Thank you」と言い合うような個人と個人の対等な関係は、日本語や日本社会には存在しない、もしくは馴染まないのだと思われる。
個人と個人の対等な関係の代わりに存在するのが「立場」である。
目上と目下、上司と部下、先生と生徒、先輩と後輩、夫と妻といった立場がなにより重要である。
相手がどんな立場かを認識するまでは、どういうコミュニケーションをしていいかわからない。わからないからとりあえず敬語で腰を低くして様子をうかがう。逆に言えば、会話する相手が「○○にお勤めで■■という役職についている▲▲大学出身の◎◎さん」であると判明するまでは、本質的なコミュニケーションは始まらないということでもある。
最初は腰が低かったのに、相手がいつもコキ使ってる子会社の人間だと判明するや急に横柄になる…。あるいは相手が有名人だとわかると妙にヘコヘコする…。
日本流コミュニケーションは、しばしばこのような態度を生み出す。そして立場がよくわからない人間とは、コミュニケーションをしないほうが無難…となる。
東京の人々は冷たいとよく言われるのも、そういうこと(見知らぬ人間ばかりだからコミュニケーションをしない)と思えば腑に落ちる。
日本語システムに「相手の立場によって言葉遣いを変える」という基本構造が組み込まれている以上、これは必然的なものだろう。
日本で生きる場合、相手の立場によって出方を変える立場主義を卑しいと思うかどうかは非常に重要な分かれ目である。
世の中ってそういうもんだろうと思う人、あるいは何も感じない人はいい。しかし、卑しいと感じる人にとって、日本はたいへん生きづらい場所となる。悩みばかり増える。
学校や会社では、そんなことを気にしているようでは社会で通用しないぞ…とばかりに、システムへの疑問を精神で抑えつける生き方へと誘導されがちだ。世間もそういう生き方を「大人になったね」と称賛する。
にも関わらず、日本の人々には立場主義システムへの疑問が現に存在する。ヒットドラマで立場主義に屈しない挑戦者が魅力的に描かれることが何よりの証拠だ。
「半沢直樹」「GTO」「逃げ恥」など、国民的ヒットドラマ、映画の主人公を思い出してほしい。いずれも会社員らしくない会社員、先生らしくない先生、妻らしくない妻をいきいきと描いているではないか。立場がどうであれ信じる道を貫く人間は尊く、そうでない人間は卑しい。一般大衆にそういう群集心理がある。
相手によって態度を変えることを避けられないシステムの中で生きることは、われわれの人生にどのような影響を与えるのだろう。
やはり精神を蝕む、心にストレスを与える方向に作動するのではないだろうか。
日常生活に、人間を卑しい(と大衆が思う)方向へと導く圧力が常に存在しているのである。
自分が尊いと思うことが、構造的に実現しづらくなっているのだから、精神は引き裂かれていく。大半の人は、「大人になるってそういうことなんだよ」と、心の中に湧き上がる何かを必死で抑えつけ、感性を麻痺させることで平穏を保とうとする。
こうした状況を克服するには、日本語を廃止するしかない。立場よりも個人を尊重するまっとうな市民社会を作ろうと思えば、立場主義の根源を断つのがもっとも効果的である。
廃止したところで、それまですがっていた心の習慣を捨て去るのは非常に難しいのだろうが、真剣に考えればどうしてもそういう結論になる。
三木谷浩史は、そのために楽天社内で英語を共通語としたのだろうか。だとしたら日本史上まれに見る革命思想の実現者ということになる。そういう類のことを真剣に考えるタイプには見えないが。
ただ、三木谷氏のように日本にいながら日本語の劣等性と向き合おうとすると、SNSで「じゃあお前は英語喋れんのかよ」と喧嘩腰で絡まれたり、英語の発音にいちいちケチをつけられるなど、陰湿な攻撃を受けることになる。
よって、海外のまっとうな国へ移住するのが一番いいということになる。それが可能な人は、たいていそうしているのだろう。