どうも、本部長です。
少し前のことになるけれども、2019年の参議院選挙で、安冨歩を中心にれいわ新選組から出馬した候補者の選挙活動を追ったドキュメンタリー映画「れいわ一揆」を観てきた話を書いておこうと思う。少々のネタバレを含むので、そのつもりで読んでください。
この映画は「ゆきゆきて、神軍」「全身小説家」で知られる原一男監督の作品ということ、そしてれいわ新選組の躍進もあって、公開前から注目を集めていた。
しかし、新型コロナウイルスの影響で公開が延期、さらに大西つねきが「命の選別」発言で除籍処分となったことをきっかけに支持者をも二分する騒動となり、2019年の参院選の時点と比べると、党のあり方も変容してしまっている。
また、れいわ新選組のゴタゴタが表面化していく段階で、原一男監督が撮影時の山本太郎の不可解な対応(目の前にいるのに無視、インタビューに応じないなど)をカミングアウトしたことで、支持者・元支持者の分断がより深まったようにも思える。
よって、たった1年前の話ではあるが、「あぁ、こんな時代もあったなあ」という懐かしさすら感じさせる内容となっている。今、観ると「ある意味面白い」作品と言うこともできるかもしれない。
安冨歩さんの予言
この映画の冒頭、安冨歩と山本太郎が話す場面があるのだが、このときに安冨さんは、無党派層と極端なリベラル層がそのうち引き裂かれていくのでは?といったような意味のことを言っている。
安冨が指摘したことが、2020年の大西つねき騒動以降、まさに起こってしまったことが非常に興味深い。つまり、彼はこの時点でれいわ新選組が抱える2つの要素がいずれ対立するだろうと予言していたことになる。
これは私が映画を観た日の客層にも表れていた。20~30代くらいのそんなに政治的主張はなさそうな人たちもいれば、安冨歩ファンっぽい30~40代くらいの女性、60代以上のいわゆるオールド左翼っぽい人たち。これらが分断していくことは、必然のようにも思える。
れいわ新選組「地味メン」たちの個性
れいわ新選組でよく名前が出るのは、山本太郎代表、当選した船後靖彦、木村英子の両議員、選挙以前から知名度のあった蓮池透、東大教授でこの映画の主役である安冨歩、あとは大西つねき。この面々はTwitterやYouTubeでも多くのフォロワーを誇る。
この映画では、その枠には入らない、いわば「地味メン」だったシングルマザーの渡辺てる子、元コンビニオーナーの三井よしふみ、創価学会員の野原善正の3人が非常にいきいきと描かれている。
この中で、特に渡辺てる子はもともと政治家の素養を持っていたように感じた。演説は我流で荒々しいが、実は教養もある、パフォーマータイプである。
三井よしふみについては、この映画を見るまで元コンビニオーナーという以外の情報を正直、僕は知らなかった。パッと見は一番普通の人っぽいのだが、ある種の狂気を秘めた表情もする。
コンビニシステムとは、資本主義の縮図のような存在だ。コンビニオーナーは自分を経営者、一国一城の主だと思っているのだが、実際はコンビニエンスストアというシステムに働かされているにすぎない。いくら働いてもコンビニシステム自体が肥え太り、強化されるだけなのだ。
資本主義にも同じことが言えるのではないか。自分は特別な存在だと勘違いした人間は、経営者になったり独立したりするものだが、実は資本主義というシステムの中で働かされているだけだ。そのシステムに働かされる過程で、人間が人間らしさを失っていくことの危険性を三井よしふみは訴えたかったように私には感じられた。古典的なマルクス主義のようで、実は現在も身近な問題かなと思う。
野原善正については、創価学会員であることは知っていた。自民党に追随する現執行部が、池田大作の教えに反していることを指摘し、我こそは平和を愛する真の創価学会員であるとして、公明党を激しく攻撃する演説動画も見たことがある。
現在、彼はれいわ新選組を離党し、創価学会からも除名され、一人で政治活動をしている。ネット情報を真に受けてしまうような危うい部分もあるのだが、れいわ新選組オリジナルメンバーの中では、もっとも猪突猛進するタイプに見えた。
野原善正はれいわ新選組のオリジナル10の中で最後に候補者となった男である。よって、山本太郎は創価学会員を出馬させて、公明党/創価学会の票を削るという作戦を当初から思いついていたわけではないことになる。
しかし、苦し紛れだったとしても、これはたいへんな発明だと思った。いままで野党はどうしてこの作戦を思いつかなかったのだろう。
映画のみどころ
この映画は4時間以上の大作なので、間に休憩を挟んで前半と後半の2部構成となっている。
後半になると少しトーンが変わる。よりシリアスになると言ったらいいのだろうか。観る側からすると没入感が高まったような感覚でクライマックスである安冨歩の堺での演説へと向かって突き進む。
その過程で、選挙というものの異常さ、日本という国の滑稽さとか、安冨歩が言うところの「暴力性」みたいなものがむき出しになる。安冨歩も、その異常さや熱気に影響されたのか、少し高ぶったような不思議なテンションだ。
あまり書くと本当にネタバレになるが、選挙戦後半の安冨歩の演説はどれも素晴らしい。どう素晴らしいかというと、一言では言えないのだが、ふと音がやむと周囲のお客さんが泣いているのがわかるのだ。
れいわ新選組の熱気はなぜ失われたのか 斎藤まさしとの関係
今、「れいわ一揆」で2019年の夏を振り返ると、あの熱気の正体はいったい何だったのだろうと、やはり考えてしまう。
それは、れいわ新選組が僕らの前に現れたときのあの「わけのわからなさ」ではなかったかと思う。
その「わけのわからなさ」が引き起こす熱気は、「選挙に勝とう」とかマーケティングで支持者を増やそうとか、システムに依存してしまった瞬間に失われるはかないものでもあった。
安冨歩は、システムが持つ暴力性こそが自分が戦っている相手なんだ…ということを山本太郎自身が見出すかどうか、といったようなことを言っていた。
実は映画の中には、山本太郎は単に選挙というシステムの中で勝とうとしていただけなんだ…ということがむき出しになる場面がある。支持者からすると、「見てはいけないものを見てしまった」と感じられる場面かもしれない。
れいわ新選組のそういう選挙戦略的なものを担っているのは、市民の党で公民権停止中のいわくつき人物、斎藤まさしなのだという指摘がある。れいわ新選組の運営に市民の党関係者が多数関わっているとする指摘を目にしたこともある。
山本太郎いわく斎藤まさしは「選挙オタクのおじさん」で「年に数回会う関係」ということらしい。が、映画の後半、斎藤まさしが偶然映り込んでいるのはたしかだ。これは「年に数回会う関係」以上のものを示唆するが、真相はわからない。
作品からにじみ出る安冨歩の思想や、型破りでエモーショナルな演説を楽しむために観るのが、おそらくこの映画の本来の楽しみ方だろう。私はれいわ新選組が迷走していく予兆が、すでにこの映画に記録されていたという意味で、2020年の「答え合わせ」のように観た。